過去【前編】

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いつの間にか、俺は一人になっていた。 二人は付き合い始めたらしく、綾乃は今まで以上に椎乙にべったりになった。 周りからすれば、それは恋人に対して普通のことなんだろう。けど、何故か俺にはその光景が異様に見えた。 「しぐちゃん、次移動教室だよね。一緒に行こ?」 「しぐちゃん、あたししぐちゃんのためにお弁当作ってきたの」 「しぐちゃん、今度の日曜日…二人で何処か出掛けない?」 「しぐちゃん、」 「しぐちゃん」 「しぐちゃん」 「しぐちゃん」 ―――――――――― ――――――― ――――― ―――… まるで何かに取り憑かれたようだった。 椎乙に執着し過ぎている。見ようによっては焦りさえ感じる。 それは本当に“異様”としか言いようがない。 それくらい、この時の綾乃はおかしかった。 ――パンッ!! 乾いた音が教室中に響き渡る。 見ると頬を抑えて固まる綾乃。 そして少し息を荒げて珍しく興奮した様子の椎乙がいた。 何があったかは容易に想像できた。 椎乙が綾乃の頬を引っ叩いたんだ。 しん、と静まり返った教室。 教室中の視線が二人に刺さる。勿論俺も例外では無い。 椎乙は息を整え、一度大きく吐き出した。 そして――――… 椎乙「……いい加減にしろよ。迷惑だ」 今までにないくらい、椎乙の目は冷たかった。 軽蔑、絶望、怖れ、色んな感情がその瞳の中に渦巻いている。 ぎゅっと拳を握り締めて踵を返すと、そのまま黙って教室を出て行く。 すれ違う瞬間に目が合ったが、俺はすぐに逸らしてしまった。 残された綾乃は教室のドアがピシャリと閉まった途端に積を切ったように泣き出した。 「ごめんなさい」と何度も何度もそう口にして嗚咽を漏らす。 そんな綾乃を見てクラスメイトは幼馴染である俺を頼ってくる。 ――俺にどうしろっていうんだ。 俺は何も知らない。知らされていない。 今の状況が誰よりも理解出来ていない。 そんな俺に、どうしろと。 とりあえず、綾乃の傍に寄って背中を摩ってやる。 この時ほど自分の無力さを通関したことはない。 綾乃「ごめんなさい…ごめんなさい…っ」 綾乃は謝り続けた。 泣き疲れて眠りに落ちるまでずっと。 眠った綾乃を俺は家まで送り届けた。 明日も会えると、信じて疑わなかった。 その日、綾乃は自殺した。 .
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