過去【前編】

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「こーたくんはあやのの王子さまなの。ずっといっしょにいてくれなきゃイヤなの」 この子は一体何を言っているんだ、と椎乙は綾乃を見つめる。 その目は座っていてとても口出し出来る雰囲気ではなかった。 「ねえ、しぐまくん。じゃましないで。こーたくんに会わないで。 ……きらい、きらいキライキライキライ!死んじゃえ!!」 暴言を吐きながら蹴ってくる綾乃に椎乙はされるがままだった。 ろくに抵抗もせずにじっと我慢している。 こういう時、椎乙はどうすればいいのかわからないのだ。 そもそも「怒る」という発想自体この頃の椎乙にはなく、ただただ綾乃の豹変っぷりに戸惑うばかりだった。 「あやのちゃーん、しぐまー?」 綾乃の動きがピタリと止まる。 康太の声だ。 きょろきょろと視線を漂わせて、二人を探している。 助かった…。 椎乙はほっと肩を撫で下ろした。 綾乃は何事も無かったかのように座り直して、じっと康太の様子を伺っている。 椎乙も服に付いた土を払って起き上がった。 所々に出来た擦り傷や痣は隠しようがない。幸い、大きな怪我は見られなかった。 「あっ、いた!もー、いつからかくれんぼになったんだよ」 「ごめんなさーい」 さっきまでのあれはまるで嘘だったかのように振る舞う綾乃を、椎乙は呆れを通り越して感心すらしてしまう。 二人の様子をしばらく眺めていたが、やがて康太と目が合うと彼はぎょっとしてこちらに走り寄ってくる。 康太の背後でこちらを見る綾乃の瞳はとても怖かった。 「しぐま!?一体どうしたんだ、その怪我…」 「あ……」 口を開こうとすると、何かに腕を引っ張られた。 ――綾乃だ。 「しぐまくん、さっきそこで転んじゃったの」 「……そうなのか?」 訝しげに聞いてくる康太。 転んだにしては傷の場所が不自然だ。 頭の良い康太は勿論それに気付いていた。だから椎乙に確認をとったのだ。 「そうだよ! ねっ、しぐまくん?」 「え、あ……うん」 半ば強制的にそう言わざるを得なかった。 康太も、椎乙本人がそう言っているのであればこれ以上疑うわけにもいかない。 納得はしていないようだが、それ以上聞いてくることはなかった。 .
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