懐古

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「連載に締め切りは不可欠だ。俺は締め切りなんて糞食らえだよ。あんなもの、鼻をかんだちり紙と一緒に丸めて燃やしてやりたいくらいさ」 根は温厚な彼からは想像できない言葉だった。私は目を丸くし、漸く言葉を発する。 「そんな無法な……」 「無法でたくさんだ」 それは、初めから返す言葉を決めていたかのような即答だった。 「俺は"目"しか武器がないのだから、きっと期限は守れない。締め切りに追われたせいで作品の質が落ちました、だなんて馬鹿馬鹿しいじゃないか」 「………」 「俺は詠えていれば、それでいい。好きなときに、好きな俳句を、好きなだけ。どんなに血を吐き苦しんでも、それだけで俺は幸せなんだ」 それは、ホトトギスの名に相応しい独白だった。血を吐き詠う、あの鳥に。そして私は、そんな彼をまた別のものに重ねていた。 降り注ぐ苦界に、蝕む病に、先の見えない短い未来に。雁字搦めになりそうになりながら、それでも強く笑う彼の姿を。凛と生き、飄々と詠む、その痩せ細ったたくましい背中を。 「"泥中の蓮"」 気がつけば、私はそう漏らしていた。ん?と彼が私を顧みた。君の事だと言ってやれば、一瞬怪訝な顔をして、やがて苦笑した。 「誉めすぎだ、夏目」 「僕の本心だよ」 泥にまみれた池に美しく咲く蓮の花。その姿が彼とぴったり重なった。 彼がふっと笑い声を漏らした。 「お前は比喩が上手いな」 「そうか?」 首を捻れば、そうだと頷かれる。 「夏目」 「うん」 「書きたい者に文学は訪れる……ってな」 再び首を捻る私に彼はニコリと笑った。 「書きたいから書くのが俳句であり小説であり、文学だ。やりたいからやる。理由なんか、それで充分じゃないか」 私は漸く理解した。漸く理解し、納得し、そして確信した。 「全く……君には敵わないよ、正岡」 だから―― 「君がいないと張り合いがない」 だから―――頼む 出来るだけ長く、生きてくれ 不意に風が動いた。 声には出さない言葉に彼はフッと頬を緩め 「……ま、努力はするよ」 柔らかな静けさの中、泥池で蓮の花は確かに咲いていた。
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