敵討ち

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敵討ち。僕は仲間の弔いのためにとある人間を殺した。同志たちと共に、どんな荒波が待っていようと立ち向かおうと考え、それを実行した。 その後、みんなは平和に暮らしましたとさ。なんて、御伽の世界のような終わりは現実に存在しないのだ。 当然、僕らは人を殺したのだから、懺悔し報いを受けねばならない。権力の走狗につかまり、暗い部屋の中で長い時を過ごし、番人たちによって裁かれる。これは将来、私が取るべき道筋であろう。  仲間のために行った犯行なので、世間は我々に同情を寄せるであろう。しかし、殺された彼はなぜ殺されたのであろう。一方的な相手側に非がある殺戮だったかもしれない。けれど、もう一方は殺された彼にも非があるということだ。我々は一方的な殺戮行為と考え、故に憤怒し仇を討ったわけであるが、もし、彼にも責任があるというのなら問題がある。耳に届いた情報だと、彼は殺されたという結果しか伝わっていないのは我々の味方が流した情報だからだ。仮に、相手側の情報であったら、また違った情報が伝わっていたかもしれない。味方による情報の偏向は自然と行われているものである。  世界は常に平等ではない。昔話の猿蟹合戦で例えると、カニの視点で描かれているためにサルが敵として登場している。そのことを発端に、あの作品を見た我々はカニに心を寄せている。 しかし、サルはいつ悪いことをしたのだろうか。カニに偶々投げた柿が当たってしまったのは、事故であると考えられなかったのであろうか。ならば、サルに償う機会を与えてやっても良かったのではないだろうか。大量殺人鬼、正常な判断ができない生物でもなんでもないサルをただ一方的に殺すのはとても正義の行動とは言えない。サルの所業に対し怒りがあるのはわかる。とはいえ、冷静に判断することも必要である。殺したことに対して、裁きや罰を受けさせる義務を負わせなければならない。  多数派が勝る民主主義の暴力的背景がこの物語に潜んでいるとすれば、我々は小さいころから少数派を弾圧することを教えとして自然と説かれていたのだろう。
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