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風が、すり抜けた。
バスを降りた瞬間の男の全身を、その懐かしさを伴った一陣の風とともに包み込む故郷の空気。
まるで、
長い長い夢から醒めたように。
男は見慣れたはずの、高い山脈に切り取られた青空を見上げた。
春先だというのに、刺すような冷たい空気。
男はダウンジャケットの中で軽く首をすくめると、道の彼方へと消えていく村営バスの後ろ姿を見送った。
村へ。
帰ってきた。
何一つ、誇れるものも持たずして。
答えを探しに。
ただひたすら、己の行く道を照らすその答えだけを探しに。
孝平は村へ、帰ってきた。
突然のクラクションに、孝平はバスが消えた反対側の道に目を向ける。
ウィンカーを点滅させながらゆっくりと減速してくるパステルカラーの軽自動車。
その車に見覚えはなかったが、このタイミングと徐行しながら歩道にぎこちなくはみ出してくる車の角度などから、ほとんど反射的に運転手は誰かわかってしまう。
「お帰り、お兄ちゃん」
「お前、免許取ったのか」
お帰りと言われたのだから返す言葉はただいまだろうと思いつつも、気恥ずかしさから孝平はその言葉を飲み込み、着替え程度の少ない手荷物を後部席に放り込むと、歩道に停まったその車の助手席へと乗り込んだ。
女性好みの芳香剤の香りが、なんとなくくすぐったい。
「免許?去年の秋に取ったよ。それよりお兄ちゃん、なんか他に言うことないの?」
「うむ、お迎えご苦労」
「や、そうじゃなくて」
「くれぐれも安全運転で頼む。俺はまだ死にたくないぞ」
「あのさぁ…」
口調に怒気を交えながらも、妹の真由美はゆっくりと車を発進させる。慣れないからかハンドルにもたれるように前のめりになり、前後を確認する目線もせわしない。
「久しぶりに帰ってきたんだから。妹よ、元気だったか~?とかさ、いろいろあるでしょーに」
「元気なのは見りゃわかるよ。お前から元気を取ったらメガネしか残らんだろうが」
「もぉ…、相変わらずだね。なんつーかその、腐った性格」
「やかましい。ちゃんと前見て運転しろ」
不満げに唇を尖らせる真由美から目をそらし、孝平は流れてゆく懐かしい景色を車窓から眺めた。
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