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「健一も、たぶん夕方までには帰ってくると思うから。ゆっくりしていきなさいよ」
他人の家ながらくつろぎ慣れたリビングで、孝平は健一の母親から湯気の立ったコーヒーカップを受け取った。
エアコンの効いた真由美の車から降りてすぐ、あっという間に冷えきってしまった孝平の体に熱々のコーヒーがじんわりと染み渡る。
「本当に、進さんの頑固さにも困ったもんだ」
テーブルに置かれた茶菓子を頬張り、対面に座った健一の母親は孝平の顔を覗き込んで目を細めた。
「それにしても孝平くん、父親譲りのいい面構えになってきたねぇ…。昔の進さんを思い出して、おばさん、ドキドキするわぁ!ヒーローだったからねぇ、あの頃の進さんは!」
ウチの旦那には内緒よ!などと言いながら、健一の母親はニタリと笑う。
若き頃の父親の“武勇伝”を聞かされることに、孝平は慣れていた。
その都度、誇らしさよりもくすぐったさを感じてしまうのだが。
「進さんもねぇ…、肩の故障さえなきゃ、それこそプロ野球選手にでもなってただろうにねぇ」
そして村人はその武勇伝をするたび、まるで決まり事のようにこう言うのだった。
『肩の故障さえなければ間違いなくプロ野球選手だった』と。
「あわよくば、メジャーリーガーだったかもしれないねぇ」
「いや、それは言い過ぎですよ」
何となく居心地の悪さを感じた孝平は、父親を賞賛する彼女の話に水を差す。
自分が努力しているところを他人に見られることを何より嫌う、無口で不器用な性格の父親。
小さい頃は、毎日のようにキャッチボールをしてくれた父親。
孝平は、そんな父親が全力投球をするところを見たことは一度もなかった。
「あ、俺、そろそろ行きます。コーヒーごちそうさまでした」
「行くって、どこへ?グラウンド?」
「はい。久々に、健一の憎たらしい顔面にボールでも投げ込んでこようかと」
「あらあら、お手柔らかに!送ろうか?孝平くん、歩きでしょ?」
「いや、大丈夫っす。ウォーミングアップがてら、走っていきますから。ここからなら大して時間もかかりませんし」
ダウンジャケットに袖を通し、孝平は健一の母親にお辞儀をして、春とは思えないほどの寒風吹きすさぶ外へと出た。
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