10人が本棚に入れています
本棚に追加
/14ページ
「古代ギリシャの哲学者エンペドクレスは、万物は火、水、土、そして空気からなると考えたんだ。一見何もないようなところにも実は空気が充満していて、それが重要な存在だと大昔から知られていたんだね」
雲崎蘇良(くもさき そら)は密閉された部屋の隅で分厚い本を貪っていた。
「昔の空は今よりずっと綺麗だったんだって。でも人間が空気を汚したせいで、人も動物も呼吸できなくなったんだ」
「今日も難しい本を読んでいるのね。ソラのてっつがくしゃあ」
ソラと同い年の晴谷窓香(ハレタニ マドカ)は下から本のタイトルを覗き見た。
「室内の換気をしないと、また発作が起こるわよ。読者もいいけど、自分の肺のこともいたわってあげなさいよ」
「分かったから、勝手に調空機のスイッチをいじるなよ。昨日も言っただろう」
空気会社が製造した人工空気がパイプを通じて送られる。
全面を金属板で覆われた缶詰め状態の家では、定期的に調空機で空気を取り入れなければ窒息してしまうのだ。
「リモコンを返せよ。俺が吸う空気の成分比率は人とは違うんだよ」
ソラが三才のとき、雲崎一家は事故に見舞われた。
汚染された外気がエアカー(飛行自動車)の隙間から入り込んだのだ。
両親は亡くなった。
ソラは奇跡的に助かったが、代償として心肺機能に異常をきたしてしまった。
以来、一般人用の空気内では居られなくなったのだ。
「この部屋に長居しすぎると体調を崩すぞ」
「遠回しに出て行けって言いたいのね」
「そうじゃなくて、マドカの肺が心配なんだよ」
「あら、ソラはいつからマドカより世話焼きになったの?」
「とにかく、一般人用の空気に満たされた自分の家に帰るんだ」
「イヤよ。もう少しいたいわ。最近、マドカのことを避けてる?」
「違うんだ」
「違わない。マドカには分かるもん」
調空機がガタガタとうなっている。
そろそろ買い換えたほうがよさそうだ。
「また明日、来たらいいじゃないか」
空気の性質のせいか、マドカの瞳はひどく湿っていた。
最初のコメントを投稿しよう!