内田樹の「街場の文体論」を読んで

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 中学校の同級生に半年ぶりに会いました。彼女は私立の進学校に進んだので、地元の公立高校に進んだ私は会えなくなりました。立ち話が盛り上がったというのか、彼女が私の話をよく聞いてくれました。密かに、その子が好きでしたが、告白したことはありません。ただ、外から見ていれば、あからさまに好きだったことがわかるほど彼女のことを見ていました。私は、純情な少年でした。その頃は、女性と話をするなんて考えたこともなく、話が出来るだけで嬉しくてなりませんでした。実質10分ぐらいだったかもしれませんが、長い時間話した気がしました。  帰ってから、また会いたいという手紙を書きました。初めてのラブレターです。というより、初めての手紙です。何をどう書いていいのかわからず、文例が浮かんできませんでした。今だったら、もう少し気のきいた文章が浮かぶでしょうが、何も浮かんできませんでした。書いたのは、会えたことが嬉しかったことと、ときどき会って欲しいということでした。便箋1枚にまとめましたが、清書を読み返してみると文字が興奮しているからか、かすれていました。上から、すべての文字をなぞって太くしました。ここまでは、舞い上がっていただけで、どこにも粗忽はないと思います。無論、彼女がその手紙を持っていたら、恥ずかしくて何としてでも取り返したくなる拙い手紙です。つきあって欲しいという訳でもない中途半端な手紙でした。  粗忽なのは、手紙というものを出したことがなかったので、封筒を閉じるとき、糊を貼ったことです。40年前のことですが、その頃すでに「剥離紙」がついていて、両面テープが貼られていました。剥離紙を剥がせば簡単に封が出来るのに、剥離紙に糊をつけて貼り付けたのです。なかなか糊がつかなくて困った記憶があります。当然、開封しようと思えば、誰でも簡単に開封できる状態でした。知らないとはいえ、剥離紙のことを知らなかったのは粗忽だったと思います。彼女の親に読んでくださいといっているような手紙です。それ以前に、郵便局員に読まれたらと思うと恥ずかしくてなりません。丁重に断られたこと以上に、封の仕方も知らなかった未熟な自分が恥ずかしい。  これが、私が知っている最も粗忽な男の話です。」
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