内田樹の「街場の文体論」を読んで

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 私は他の人に比べて圧倒的に粗忽だと思いますが、それは私の見聞きした中での話です。私が見聞きすることの大半は私のことですから、最も粗忽なのは私になります。ただ、多くの人の中で、目立つほど独創的に粗忽かといわれると、そうでもありません。テレビでは、バラエティ芸人が粗忽であることを競っていますが、あれほど粗忽ではありません。テレビ的にいえば、私の粗忽は売りになりません。なので、粗忽勝負は止めて、最終レポートである論点を一つに絞って意見を書くことにしました。 セカンドレポート 「私は日経エコロジーに連載を持っています。2年目に入りますが、プロの作家ではありません。普通のサラリーマンです。会社に知られたくないので川中三四郎というペンネームを使っています。ただし、連載しているといっても、二ページの記事の元ネタを提供しているに過ぎません。あなたがいわれた漢字の選択云々以前に、文章が大幅に変えられます。文責が私にない仕事です。 私は、自分が創作した文章が修正されることなく、そのまま発行される作家になりたいと思っています。  今は、小説を懸賞募集に応募したり、こういう手紙を雑誌社などに送ったりしています。雑誌社に手紙を書いたことから、エコロジーの連載は始まりました。中には興味を持ってくれる編集者がいます。  あなたは、文章を書くためには「古典を浴びるように読む」ことが大事だと書かれていましたが、私は「多くの人に手紙を書く」ことの方が重要だと考えます。「読むこと」と「書くこと」のどちらがより重要かということを論点にしたいと思います。どちらも重要だということは当たり前ですが、どちらをより意識すべきかについて論じていきます。  「読者」と「作者」の間には、大きなギャップがあると思います。谷のように深くて、普通はなかなか渡れないギャップです。作者は簡単に読者になれるかもしれませんが、読者はなかなか作者にはなれません。いい文章を読むことは簡単ですが、いい文章を書くことは難しいのです。
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