内田樹の「街場の文体論」を読んで

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 私自身、少しだけこのギャップを超えようとしている段階にいると思っています。ただ、完全にこのギャップを越すことはできていません。それに比べて、あなたは三十年前に読者から作者になられました。先達です。ただ、あまりに昔の話なので、どうやってこのギャップを越えたかという記憶が薄れられたのではないでしょうか。私のように渡る途中である人間の方が、このギャップの渡り方をより正確に伝えられると思います。  お釈迦様より、菩薩の方が我々に近い教えをしてくれるというのと同じです。(自分のことを菩薩に例えるのは恐れ多いことですが、あなたをお釈迦様に見立てたのですから許してください。)  読書では読者の土台は出来ますが、作者の土台にはなりません。読書で得た知識は、作者が掘り進んでいる土や石かもしれませんが、掘るという作業にとって古典は邪魔物でしかありません。古典を読むことは、自分を閉じ込める檻を作っているようなものです。「型破りなことをするには、型を学ぶ必要がある」と板東玉三郎がいっていましたが、古典は倒すべき敵役でしかありません。敵役が強すぎたら、主人公はなかなか活躍できません。古典は適量でいいと思います。溺れるほど読んだら死んでしまいます。  私の年齢が、こういう考え方にたどり着かせていると思われるかもしれません。実際、この年で古典を読み始めても、読み終わりません。ただ、学生さんたちにとっても、手紙を書くことは重要な修行だと思います。それも、多数の人に手紙を出すことが、役に立ちます。読書の重要性を軽んじるつもりはありませんが、作者になるには手紙が最も効果的です。相手の立場を想像しながら、相手が読みやすい言葉遣いをする。手紙の読者は一人だから、想像の翼を拡げれば、相手を思うことも出来る筈です。一般の読者にメッセージを送るには、不特定多数の人のことを考えるという意味ではとてつもなく大きな想像の翼を拡げる必要があります。
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