Ⅰ

3/74
前へ
/632ページ
次へ
「ちょっと、貸して」 重なっていた文雄の手が急に重くなったかと思うと、彼は腰を浮かせて、もう片方の手を恵美の鞄の中に入れた。 目を動かしてはいなくとも、恵美にはそれが見えているはずなのに。 止める気力も、なかった。 「うわあ……。着信履歴、カズばっかじゃん。キモッ。 こうなると、ストーカーっぽいね」 いくら悪ふざけとは言っても、和成の悪口など聞きたくもないのに。 頭を振ろうにも、力が入らない。 「まあ、こんな状況じゃあ……そうしたくなる気持ちも、分からなくはないけど、ね」 クスリと笑う文雄の指が、恵美の携帯電話のボタンを数秒押し続けると、画面は少し抵抗するように瞬いて、消えてしまった。 それでも、やはり恵美はトロンとした目を、宙にさ迷わさているばかり。
/632ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3303人が本棚に入れています
本棚に追加