Ⅰ

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「『今は』……なんて言おうとしたんですか?」 自分の口から出た声のはずなのに、この時ばかりは、まるで他人のもののように聞こえた。 思いがけず低い、囁くような声に、和成も驚いたように眉を上げる。 「だから、今は……」 「今は……?」 言いにくそうに言葉がプツリと途絶える。 それでも、恵美は複雑な感情をたたえた瞳を彼から逸らすことなく、続きを待った。 すると、とうとう諦めたらしい和成は、 「今、好きなのは恵美だけだよ。 いいだろ、これで」 ぶっきらぼうに言い放って髪をかき上げる様子は、まるで怒っているようにも見える。 が、サラサラ流れる髪の合間から覗く彼の耳が微かに赤らんでいるのが見えて、恵美はようやく息を吐き出すことができた。
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