冬桜《パソコンver》

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 異性にこんなに近寄られたのは初めてだった。ずっと男ばかりに囲まれて生活してきたし、女の子と付き合ったこともなかった。彼女の指がくすぐるように僕の首を伝う。ネクタイを通すシュルシュルという音が耳をくすぐる。息を止めていた僕は苦しくなった。最後に首元がキュッときつくなって彼女はポンと僕の胸を叩いた。彼女が僕から離れた瞬間、息を吐いた。我慢していた僕はきっと耳たぶまで赤くなってると思う。そんな僕を見て彼女はまたクスクスと笑った。  そのあとは店の中を案内される。出勤時のカードの通し方や従業員トイレの場所、厨房に入る時には必ず着帽、客席に出るときは一礼してから入ること。僕は初めてのバイトで緊張してカチコチで、客席に出た瞬間から右手 右足が一緒に出ていたらしい。カウンターの中を説明される。ジュースやアルコールが入った冷蔵庫、製氷機、グラスや布巾の場所。グラスの拭き方を教わる。狭いカウンターの中で彼女と体が触れたり手が触れたりして、その度にドキドキした。 「あ、榎並くん割れてる。指、怪我してない?」  グラスを磨くよう言われてゴシゴシ拭いていると鈍い音がした。 「す、すいません! べ、弁償します」 「気にしないで。これから気をつけてくれればいいから、ね?」  副店長にまた笑われた。レジも教えてもらった。お札の数え方が分からなくてトランプを数えるように一枚一枚重ねていたら、お札の数え方はこう、と僕の左手を取って小指と薬指の間に札を挟んで親指で送るよう教えられた。僕は手が触れた瞬間に顔が熱くなり、耳が熱くなり、額から腋の下から大量に汗を噴いた。 .  3時間働いて、僕は初日を終えた。 「榎並くん、お疲れさま。また明日ね」  自宅まで歩きながら今日の出来事を振り返る。  細い腕。足首。白い首筋。後れ毛。髪の匂い。触れた指先。あたかもキスされそうな位の近い距離。  僕はバイト初日にして恋をした。年上の女性に恋をした。 . 2  副店長は僕の教育係なのか、いつも一緒にカウンターで仕事をした。小銭の数え方、ドリンクの作り方、生ビールの注ぎ方、全て彼女から教わる。不器用な僕に合わせ、ひとつひとつ丁寧にゆっくり教えてくれた。きっと経験者だったらいちいちこんなふうに付き添わなくても済んだのに、と前2軒のバイトが断られた理由がよく分かった。 「僕で良かったんでしょうか」 「何が?」
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