4人が本棚に入れています
本棚に追加
1
時は昭和36年。
網走秀(あばしりすぐる)は中学校からの帰宅途中、ちょっとした寄り道をしていた。
本日発売の推理小説〔赤い蝉〕を購入する為である。
秀は作家・伊東京一郎の大のファンであった。彼の書いた小説は全て購入し、熟読玩味している。特別推理することが得意だという訳でもないが、秀の将来の夢はシャーロック・ホームズや伊東京一郎の書くシリーズの主人公・桜井灰龍のような、どんな難事件でも見事に解いてしまう名探偵なのだ。
口を開けば推理小説の話しかしない秀に、周囲は呆れ気味である。
ずらりと並んだ分厚い書籍の前に長い間突っ立っている秀は、三度目の深い溜め息を吐いた。
待望していたあの〔赤い蝉〕は、既に売り切れていたのだ。
それ程、伊東京一郎の小説は人気なのである。
落胆している秀を、叩きを持った中年の店員が追い撃ちをかけるように言った。
「そこにいつまで立ってるんだ。他の客の邪魔になる、何も買わないなら出て行け」
否応なしに書店を追い出された秀は、怒りとも悲しみともつかない感情を抱きながら、自宅へと続く登り坂を歩き始めた。
時刻は午後5時過ぎ。空は茜色に染まり始めている。ここ神保町は街灯がまだ少ないので、闇に包まれる前に自宅に帰り着かなければならない。そのことは中学での決まり事にもなっていた。
幽霊や座敷童でも出て来そうな小さな襤褸屋敷に帰り着いた秀は、ただいまも口にせず自室へと閉じ籠った。
肩に掛けていた通学鞄を机に置き、学ランから私服へと着替える。敷きっ放しの煎餅布団の上に横になると、そのまま眠りに落ち入った。
〔赤い蝉〕のことを忘れる為に。
再入荷されることを心の奥底で望みながら、秀はやがて寝息を立て始めた。
,
最初のコメントを投稿しよう!