プロローグ -隅田川の河童-

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昭和六十一年四月二十三日は充分に暖かい日だった。 二十四節気で云う恵みの雨が降り出す穀雨ではあるが、春雨が降り出すような陰鬱な雰囲気はなく、殊に春めいた気候であった。 そんな日和に有栖川春[アリスガワハル]は汐入にある霊園に赴いたのである。 そこは神道の霊場である。 墓石はどれも神道式のもので、石柱のような細い墓が整列したように連なっていた。 色はどれも白に近い灰色で、穢れの色である黒は避けられ、墓地には清明とした神聖さがあった。 そんな中を一人、手に持つ水桶を眺めたアリスが歩んでいく。 彼女は金色の瞳、金色の髪をした混血児である。派手な金の輝きが場違いな感じを醸し出すように思えるものの、穏やかな春日の下ではどこか調和を感じられた。 また、時たま水桶から垂れた雫がスカートを濡らすのに彼女自身もまた調和というものを感じていた。 彼女は今年の晩冬、悲しい事件に因って親代わりの恩人をなくしている。彼女は悲しみに明け暮れた。明け暮れた果てに、家に引き篭もり続け、昨日まで憂鬱だけを感じて生きてきたのである。 そして、今日に至る。 今日はその彼の五十日祭に当たる。 五十日祭とは仏教の法要に当たるもので、彼を愛していたアリスが出ていかない訳にはいかなかった。 結果、五十日の引き篭もり生活から見切りをつけ、四月の春の日和に彼女は当てられることになる。 まことに清々しい気分であった。 新緑の映える木々、暖かい春の気を運ぶ風、草花の茂りを伝える良い香り、歓喜を声に出す小鳥たち――特に今は桶に揺れる水面の煌めきが愛おしい。 涙のような雫が桶の縁から垂れている。そいつがスカートを濡らすがその感触は春の日和に当てられて心地よく感じられた。 悲しみ切った果ての調和――アリスはそれを感じ、霊園はそれを感じる彼女に似つかわしいものではなくなっていた。 「良い天気になってくれてよかったわ」 アリスは呟くと、桶を置いた。 桶につっこまれていた柄杓が縁を叩く。 彼の墓の前に着いた。
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