プロローグ -隅田川の河童-

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墓は汚れ一つなく、花が添えられていた。枯れてはいない。まだみずみずしい。 どうやらアリスより先に墓参りに来た者がいるようである。 (フミキかしら……) アリスは三上文紀[ミカミフミキ]という知り合いの雜誌記者のことを思い浮かべた。 通常、神道式では花は供えない。 神道式では玉串(榊の枝)を供える。 神道式の儀礼に詳しくない文紀が間違えてそうしたというのがまず思い浮かんだ。 (伝えわすれてたわね) アリスは文紀が墓参りしてくれたのに嬉しさを感じ、同時に苦笑いを浮かべてしまっていた。 アリスは花は家で飾っておくことにし、花の代わりとして榊の枝を供えた。 生き生きとした緑色の葉っぱをつけた榊が芽生えの時期に協調している。墓石が春の訪れを喜んでいるようだ。 昼下がりの日射を受けたあの人の墓はきらきらと煌めいている。 (これでいいのかしら……?) 不意にそんなことを考えた。 アリスはあの事件以来、特に何とも関わらなかった。この墓に眠る彼のこともあったが、それ以外にもショックがあった。 彼女は事件の犯人の一人を怒りにまかせて焼き殺した…… それは仕様がない状況だったという事実があったが、人間を一人殺めたのには間違いない――そう、彼女の魂は穢れたのだ。 アリスは葬式の後、副業にしていた霊能を使った人助けはしないことにした。 日常生活でも、できるだけ他人に関わりたくない。ある程度のコミュニケーションはしていたが、それはその程度だ。 しかし、そんな考えも今なら馬鹿馬鹿しく思える。春めいた墓の清々しい雰囲気に、馬鹿な思いこみは吹き飛ばされたようだ。 「いつも通りでいいんだよ、アリス。まあ、自然体でいなさい」 墓の清々しい様子を見てると、あの人からそう言われている気がした。 それは単なる思いこみの妄想なのか、実際にあの世のあの人からのメッセージなのかは分からない。 ただ言えることは、アリスの感情に何かが芽生えたのだ。それは、春の心地よい風に煽られて現れたやる気である。 「今思うに、春とはいい名だね。春は人の心を清め、活発にさせる――年の始めにある季節としては最高だ」 彼がいつか零した自画自賛の言葉だった。 (たしかにその通りね――) アリスは今年の春に何らかの萌芽を感じた――それは誰かとの出会いである。 (運命的に誰かと出会う?) 彼女は第六感でそう感じた。
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