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誘惑したのはもちろん瑠都だ。いつもはゆったりとした後部座席に座る瑠都が助手席に座る時、いつしかそれはすなわち鏑木との情事を暗に示唆するものとなった。ほんの数分前までの、あの乱れた様子は今や微塵も見受けられない。今の二人は完璧に令嬢と運転手。まごうことなき主従の関係である。鏑木は車のドアを閉めると、瑠都の後ろ姿に向かって制帽を取って恭しく頭を下げた。
「おかえりなさいませ、瑠都お嬢様」
すかさず玄関の重厚な扉が開き、邸内から老齢の婦人が姿を現した。川村家の女中頭である。
「ただいま、ばあや」
「遅いお帰りでございますね。急ぎませんと今夜のパーティーには到底間に合いません。すぐにお支度を」
「わかっていてよ。今夜は私たちにとって大切な大切なパーティーですものね。すぐに入浴の用意を」
「かしこまりました」
屋敷の中では女中や使用人達がひっきりなしに動きまわって落ち着かない。今夜は宮内省に軍部、そして財界などあらゆる層の関係者たちがここに集まるのだから無理もない。そしてそのパーティーの席上、病死した母親の代わりとして、父親を援助しながらホステスという大役を勤めなければならないのだ。まだ終わりそうもない長い一日に、瑠都は大きなため息をひとつ吐いた。
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