プロローグ

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その一年後、お袋は逝っちまった。俺と親父と小さな妹を残して。白血病だった。 死ぬ間際まで俺の顔を見てはお袋は泣いていた。俺の存在が全て嫌だったんだろう。 生前お袋は俺を隣の学区の小学校の養護学級に通わせてくれた。そこで 「博は如何して先生との付き合いは出来るのに同級生とは仲良くなれないの?」 と俺に言い続けた。 当時は周囲の環境の所為にしていた。カナー自閉症(一般的によく知られた自閉症)、LD(学習障害)、ADHD(注意欠陥・多動性障害)、みたいな奴等がクラスメートだったからだ。例を上げれば、突然意味の分からない同じ言葉を発する奴、涎垂らしまくりの奴、丁寧に教えても覚えの悪い奴。こういう奴等ばかりだったからだと。 然し原因は自分自身だった。協調性なく、人の感情を理解せず、自分勝手なの行動を取った俺自身だった。 そうそう、先述の通り俺は問題児だった。その内訳の一つ、授業妨害についてだ。特に社会の時間では無駄に覚えた知識で授業を妨害し、算数になっては「つまらん」と連呼した。知識の百科事典だったか、そんな感じの本を丸暗記したからかな。 以後俺は問題児、そして障害者として中学へ進学。中学では登校三日目で些細な事でクラスメートを殴り合いになり結局一年生で二十五日、二年生で十二日、三年生で三十日しか学校に登校しなかった。中学の思い出?有りません。 其れで今は高校生の俺。よくそんなので高校に行けたなって?小学校から通っていた個人塾でみっちり勉強したからな。 そんな訳で進学したは良いが、中学の時の因縁を持った奴が俺の悪評を流した御陰で入学早々問題児に。そして俺の知らない間にこれから生徒会長になる奴を俺は敵に回したらしく、ロッカーには猫や烏の死骸、机が廊下に捨てられる等の行為が有り、二年の後期になってそいつが生徒会長として君臨した後は生徒会公認の苛めになった。という訳で一年の時も二年になってからも俺は真面に学校に通ってない。 ただ何もしないで家に籠ってる訳じゃ無い。高校で唯一出来た友達と呼べる人の所でアルバイトしてる。此奴については後々話すとしよう。
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