第三章

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 婉容は璧輝の問いに答えるどころか、ショックのあまり目の焦点が合わず、まるで発作を起したように全身がぶるぶると震えている。璧輝は彼女の足元に落ちている自分の外套を素早く拾い上げ羽織ると、抱きかかえるようにして彼女を車まで連れて助手席へと押し込んだ。素早く運転席に座りハンドルを握って漆黒の車を走らせる。自分達を襲った二人の中国人密偵が既に冷たい亡骸となって、日本兵によって、まるで積荷のように無造作にもう一台の車に押し込まれているのが、走る車窓の片隅に見えた。哀れ、彼等にしても国への忠誠心にかけては自分と同じであろうに。  同じ中国人同士でありながら皇后陛下まで巻き込んで何故こんなことを? 自分の行動は正しいのか? このまま日本人の言いなりになっていいのか?   自問する璧輝に、己に潜むもう一人の自分が答える。  迷うな。すべては清朝復辟のため。その大願の前にあらゆる小事は犠牲にせねばならない。一介の国民党の密偵の命も、そして今隣に座っている何も知らない皇后とて同じ事。彼女の意思にかかわらず、何としてもこの方を満洲国執政夫人に祭り上げなければならない。たとえ今どんなに慙愧の念に苛まれようとも、後の壮大な勝利を思えばこそ、自分は日本人に協力し、関東軍から与えられた任務を遂行しなければならないのだ。  璧輝は青白く血の気の失せた唇を噛み締め、アクセルをさらに踏み込んだ。  車は猛スピードで大連ヤマトホテルを目指してゆく。
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