第二章

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 狭い船室に押し込められた婉容はまんじりともせずに中を見廻して、すぐにそれが旅客船ではなく輸送船であることに気づいた。ドアの両側には二人の日本兵が立ち、辺りには薄汚れたいくつかの土嚢と壊れかけた木箱の残骸が散乱していた。 「ご不自由でしょうが、暫くの辛抱です。どうぞおかけ下さい」  婉容は璧輝に促され備え付けの椅子に腰かけた。  丸い小さな窓を覗くとおそらくあれが陸地の外郭であろう、縁取られた細かな星のような幾つもの街の明かりがゆっくりと遠ざかってゆく。  押しつぶされそうな恐怖と僅かな好奇心とが入り混じった、複雑なこの気持ちを、確か以前にも味わったことがある。それは間違い無く、全くあの時と同じだった。  まだ自分が少女の頃、前時代の遺物とも言うべき清王朝という未知の世界へ、顔さえ見たことの無い皇帝溥儀の許へと輿入れした、あの時と同じ気持ちを今また味わっているのだ。    婉容は相変わらず漆黒の外界をぼんやりと眺めている。  自分の人生はまるでこの古びた船のようだと、今更ながらつくづく思う。自らの意思とは遠くかけ離れた所で、運命という暗く広大な海の上を、当ても無く人に操られながら彷徨っている。  きっと天津には二度と戻ることはないだろう。自分の生れ育った懐かしい街。紫禁城を追われ、皇后という身分を忘れ、自由な束の間の幸せな時間を過ごした街に二度と決して戻ることは無い。そんな哀しい確信が、紙に滲む漆黒のインクのように胸の奥にじわじわと滲みてゆく。
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