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汽船の大きな揺れにぎくりとして目を覚ました。気が張っていたのだろう眠りは浅く、その揺れにまたも中国軍との銃撃戦かと思ったのだ。
「お目覚めですか? ちょうど良かった。もうすぐ大連です」
不安はその一言であっさりと取り払われた。船内はかなり冷え込んでいて、オーバーコートの上に外套を掛けられてもなお、うすら寒い。一晩中軍服でいた璧輝はもっと寒いだろうと、婉容は外套を脱ぐと「ありがとう」と低く呟いて璧輝に差し出した。
「下船したら外はもっと冷え込みます」
璧輝はそう言って今度は婉容の肩にすっぽりとそれを羽織らせた。
「でも貴方が……」
「心配ご無用。さあ、到着です」
璧輝に手を引かれ、甲板に上がる。待ち構えていた二人の日本兵が璧輝と婉容の後に続く。夜はすっかり明け、空を厚く覆う灰色の雲の切れ間からほんの微かな陽光が降り注ぎ、べたつく冷たい海風がまるでよそ者を嘲笑うかのように容赦なく吹きすさぶ。婉容は唯一の荷物であるハンドバックを縋るように片手で抱きかかえた。
──これが満洲の玄関と謳われた大連なのね……。
埠頭にはあまたの大型船が停泊していた。立ち並ぶ倉庫群、何台かのクレーンがその鋼鉄の長い首をせわしなく動かして船からの積荷を移動させている。正午近く、汽船は活気づいた埠頭へゆっくりと船体を近づけてゆく。
完全に中国の支配権を離れた日本の租借地、大連。どんよりと重く気の滅入るようなくすんだ都市。それが今日生まれて初めて足を踏み入れる、この地に対する婉容の第一印象であった。
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