第一章

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 残された婉容は「静園」で落ち着かない日々を過ごしていた。名ばかりの夫たる溥儀が何処に脱出したのか? 自分に対し箝口令が敷かれているのだろう、周囲の者に訊いても知らぬ存ぜぬを繰り返すばかり。孤独はさらに深まり、陰謀と策略の影に怯えながら、身動きが取れずに彼女はただひたすら待つことしかできなかった。不安で押し潰されそうな、それでいて無限に続くかと思われる単調な生活は苦痛以外の何物でもない。日本領事館からも国民党からも秘かに監視を受けている以上、自由を望むなどもってのほか。  何を「待って」いればいいのか? 何時まで「待って」いればいいのか? 問うても帰ってこない答えを虚しく待ち続けて、彼女は無為に日々を送らざるを得なかった。  しかしその籠の鳥の婉容の生活に突然終止符が打たれたのは12月初旬のとある日の夕刻であった。日本の将校が面会に来ていると告げられて、怪訝な表情を浮かべて応接間へ下りて行くと、礼を正して直立不動のまま彼女の出現を待つ一人の人物がそこにいた。  上背のある均整のとれた体躯に軍服が良く似合う。俯き加減の深く被った軍帽から覗く白い顎、引き締まった頬。それらが匂い立つような若さを感じさせる。そしてその涼やかな唇から零れる流暢な北京官話の低い声に、婉容は思わずうっとりと聞き惚れた。 「慕鴻(ムーホン)皇后陛下にはご機嫌麗しく存じます。関東軍の命により、貴方様を宣統帝の許へお連れすべく本日参上致しました」  将校はゆっくりと顔を上げると双眸を真っ直ぐ婉容に据える。
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