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まだ日付の変わらないその日の夜更け、璧輝の運転する車が音も無く滑るように埠頭に到着した。先に素早く車から降りて婉容の為にドアを開ける。夜の冷たい外気が無数の矢となって容赦なくその青白い頬を突き刺してゆく。婉容は帽子を目深に被り、オーバーコートのファーに顔を埋めた。震えが止まらないのは寒さのせいだけではない。着のみ着のまま、手にした荷物はハンドバック唯一つ。それを固く握りしめて、彼女は前を行く璧輝の防寒外套を纏った後姿をじっと見つめながら無言でついてゆく。
するとその璧輝の前方に同じく外套姿の三人の日本兵が、まるで亡霊のように闇から浮かび上がった。そのうちの一人は璧輝から車のキーを受け取ると、そのまま二人が乗ってきた車に乗り込んで、来た道を速やかに引き返していった。
「手筈は?」声を潜めて璧輝が問う。
「すべて整っております」
残された二人はおそらく護衛なのだろう、踵を返すとやはり無言で歩き始めた。
埠頭は墨をこぼしたような深い闇にすっぽりと覆われて、海と陸の判別がつかないほどだ。気の遠くなるような、重くずっしりとのしかかる静寂。それがよけいに神経を張り詰めさせる。無機質な靴音が敷き詰められた石だたみに打ち付けられ跳ね返り、さらに大きく埠頭に響き渡る。緊迫した空気の中、暫く歩くと明かりを消した一艘の小型の汽船が闇から不気味に姿を現した。全員無言で素早くそれに乗り込むと、すぐに船は岸壁を離れ、同時に船室内に灯りが点いた。
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