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柔らかな月光が照らす夜は、暗く狭い山道も恐ろしくはない。
幼少時より幾度となく神殿を抜け出しては駆け回った、なだらかな起伏のこの山は、私にとっては慣れ親しんだ庭そのもの。
大きな体に力を漲らせる獣も、鋭い嘴を持つ夜行性の鳥も、『私達』を傷付ける事など出来はしない。
背を温める健やかな寝息を確める様に歩を止めた刹那、胸に掛かる繊細な金細工を自然と握り締めていた。
「愛しい私の娘――あの人はこれを王家の証だと言って授けて下さったけれども、私達にはもう必要ないわよね……」
小さな黄金が呼び覚ます束の間の幸福は、この心にだけそっと仕舞っておけば良い。
「愛しい子、貴女の未来は貴女だけのものなのだから……」
月明かりを受けて眩く輝いている首飾りを外すと、草葉が豊かに繁る細い獣道から樹々の合間を縫い、山裾を見下ろせる中腹の崖へと出た。
春の穏やかな風が、夜露に濡れた緑と土の濃厚な匂いを帯びて吹き抜けて行く。
満月の光が粛々と降り注ぐ眼下では、宵闇に潜む悪霊を祓うかの様に燃え盛る炎の柱が、生まれ育った神殿を赤々と浮かび上がらせていた。
神殿前の広場で燃える彼の炎柱は、太古の昔よりこの国を護る神聖なる炎と崇められており、もう千年も絶やす事なく焚かれ続けているのだと言う。
そして同じ様に神殿が守り続けて来たものが、もう一つ。
この身の内にも流れている、贄たる巫女の血筋――。
「……本来ならば、私が次の贄となる筈だった。けれども私は、あの人の想いを受け入れてしまったの…………」
血を絶やさぬ為には子孫を残す者も必要だけれど、その役目は顔も知らない兄と弟に託されていた。
巫女の血を継ぐ家から女児だけが神殿へと引き取られ、来るべく日の贄として育てられるのだ――。
王族で在りながら、巫女の身を穢すと言う禁忌を冒したあの人は、全ての権威を剥奪されて幽閉された後、自ら命を絶ってしまった。
生まれて来たこの子が、女児だと知らされた直後に……。
首飾りを少しの間だけ見詰めてから、最後の迷いを振り切る様に、炎の柱を目掛けて投げる。
それから、夜空の星に向かって祈りを捧げた。
――願わくは、あの人の冥福を。そして、贄とされてしまう女児が二度と生まれて来ない事を…………。
不意に、小さく柔らかな拳が軽く肩を叩いたから、祈るのを止めて再び獣道へと戻った。
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