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 素直に消えようとしている相手をわざわざ呼び止めるなんて、どうしようもなく愚かしい行為と言えよう。しかし裕之は、最後に最も気になっていたことを訊ねた。 「……お前、名前は?」  向こうは自己紹介の時に自らの名前を言わなかった。それが、どうにも引っかかっていたのだ。名前のない自己紹介なんて、裕之より寂しい。  相手はすぐには答えなかった。その間もどんどん体は透けていき、どうにか視認できる程度になったとき、ようやく返事が帰ってきた。その時確かに裕之は、頭に響いた声からこれまでとは違う感情を感じ取った。 ――名前はない。私は、まだ何者でもないのだからな―― 「なら、俺が勝手に名前をつけさせてもらうよ」  もうほとんど見えない相手に向かって、裕之は軽快な声で言った。 「クラウディ、また今度」  その言葉を聞いて、クラウディは完全に姿を消してしまった。  雲に似ているからクラウディ。呆れるほど単純な名前だ。裕之は帰り際一人苦笑していた。しかし、名前などそういうものだ、とも考える。自分の想いを込めて親がつけたもの。そこに他人が口を挟む余地なんてないのだ。だがそう考えると、出会って間もない相手に勝手に名前をつけられたクラウディはあまり恵まれていない方なのだろう。しかしそうしないと、裕之がめんどくさいことになるのだ。  裕之の家は広場から徒歩十分くらいのところにある。山が低いことと裕之の家が山の麓にあることから、かなり簡単に広場へ行くことができる。もっとも、冬場はこの距離でもしんどいかもしれないが、今は夏の終わり。半袖の服でも問題がないくらいだ。  セミの鳴き声も切なくなってきた夜道をしばらく歩くと、白っぽい壁の家が見えてきた。その壁は月光を反射し僅かに発光しているように見えるが、黒い屋根は見事に夜に溶け込んでいる。この家が、裕之の住居だ。  ポケットから鍵を取り出し中に入る。靴を脱ぐと廊下の電気を点け、居間に向かった。家の中はどの部屋も真っ暗で、それがこの家の住居人の状態を見事に告げていた。
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