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いばらさんの名前を、僕は知らない。美術室の奥にある扉の先の旧美術部室を私有化して住み着いている、半ば都市伝説のような、悪く言えば性質の悪い学校の怪談のような上級生。薔薇の花ばかりを黙々と描き続ける美術部員。通称は、いばらさん。たまに畏怖や憧れを込めていばらの君と呼ばれていることもある。誰もがいばらさんの名前を忘れている。切れ長の大きな目に、きれいに切り揃えられた長い黒髪が肩口から音もなく翻るのには目を奪われずにはいられない、学校でも指折りの美人。取っ付きにくい雰囲気が彼女を高嶺の花にしていた。そして、今は昏昏と眠り続けている。僕だけがそれを知っている。
旧部室はいつも西日が差し込んでいる。古いクリーム色のカーテンは薄く埃を被ってその色をますます模糊としたものとしていた。いばらさんの描いた様々な薔薇も、少しずつ埃を被っていく。黄金色と日に焼けた紙の色が午後のまま部屋を留めていた。いばらさんはいつも通りすやすやと寝息を立てて眠っている。薔薇はいくつあるのかも、薔薇の絵が何枚掛けられているのかもわからない。茫漠と薔薇の森が広がり、絵の具の散った机にはパレットや筆が忘れ去られたように、ぽつんとある。油絵具、アクリルガッシュ、水彩、パステル、色鉛筆。ここでいばらさんを見つけた日、散らばったまま色彩を淡く放つそれらを拾い集めては片付けた。今では大分片付いている。足元から少しずつ冷えが押し寄せ、紫陽花ははっとした。秋がもうじきやってくる。
いばらさんはすやすやと床で眠っている。手に触れるとひやりとしていた。慌てて持ってきた毛布の一枚を敷き、その上にいばらさんを横たえると、もう一枚を被せる。それでも手の冷えが植え付けた不安は拭えず、少し考えて、紫陽花は自分の上着をその上から掛けることにした。
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