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風が、吹いて、風に乗って声が聞こえた。
か細く弱々しいその声は、今にも消えてしまいそうだ。
少年は風に乗って、その声を聞いた。故にどこから聞こえてくるのか、すぐに分かった。
少年がその人を見たことは、もちろんない。しかし、先程声が聞こえたのでどのような声の持ち主かは知っている。
女はひどく汚れていた。服はボロボロで、髪は伸び放題だった。表情に生気はあまり感じられず、虚ろな瞳を少年に向けている。
少年は路地裏にいるこの女を、不思議そうに見た。
女の歳はまだ30くらいだろう。顔にしわはあまりなく、顔立ちも綺麗だ。
しかし身体のあちこちが土や泥で汚れている故、汚く見えた。
少年が、「声を聞かせて下さい」と言った。
しかし女は首を横に振り、虚ろな瞳を少年に向けるだけだった。
少年は、少し悲しそうな、哀れむような目で女を見た。
女は涙を流し、必死で声を出そうとした。
しかし、女の口からは空気と一緒に、少しの掠れ声が出るだけだった。
必死で、女は声を出そうとした。
無理だと分かっていても、女は諦めなかった。
少年は、女を見つめる。
「…あなたの声を、知っていますよ」
不意に、少年が女に言った。
血を吐き、息を乱している女が少年を見上げる。
女が座る地面の周りには、女が吐いた血が生々しく花のように散っていた。
「とても、綺麗な声でした」
少年は笑う。
あなたの声を聞くと、心が優しくなれた。生きている植物が、喜んでいた、と。
少年は、言った。
「あなたの声を、知っていますよ」
女の目から、透明な滴が頬を伝った。
女が、心から嬉しそうに、笑った。
嬉しそうに。
女が、唄った。
「ありがとう」と、唄った。
たった一言のその言葉を唄った後、女は眠った。
少年の見ている目の前で、身体を地面に預け静かに目を閉じた。
少年は、初めて聞いた女の声に、少し驚き、少し悲しんだ。
綺麗な綺麗なその声に、少し酔いしれた。
いつか、風に乗って声が聞こえた。
その声は低く、太く、芯のある綺麗な声だった。
少年が声の主を見に行くと、唄を唄っている男の隣で、一人の女が笑っていた。
女は、男に嬉しそうに言った。
「ありがとう」
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