第2章 ゴーディア編

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「アザエル閣下……! 殿下が……突然髪を……!」   短く不揃いになった黒髪の少年は、右の手に近衛兵の剣を持ち、その白い裸足の足元には黒く艶やかな長い髪がばさりと散らばっている。 その少し後ろには、水を入れてあったグラスの残骸と水で滴った布、銀のトレーが乱雑に散りばめられていた。   その様子を見たアザエルは、静かに少年の元へと歩み寄ると、刺激しないようにそっと右手からその剣を抜き取った。 「クロウ殿下、なぜ髪を切ってしまわれたのです?」 「……邪魔だったから……」   まだ変声期を終えていない少年の声は、朱音の声よりも少し低く、別の人が話しているような気持ちの悪い感覚に陥らせる。   無表情のアザエルには珍しく、ふうと息を一つ吐くと、アザエルは受け取った剣を近衛兵に返し、下がるように命令した。 どうやら、それは彼の溜め息のようだった。 「この不揃いなままにはしておけません。後で美容師を寄越しましょう」   朱音はふいっとアザエルから背を向けた。 「そんなこと、別にどうだっていいよ。わたしはクロウなんかじゃない、新崎(にいざき)朱音(あかね)。あんたが無理矢理ここに連れてくるまでは、普通の中学生で受験生だった」   朱音はぐっと拳を握り締め、震える声でそう言った。 「裕福じゃなかったけど、友達もそれなりにいて、あったかい家族に恵まれて、わたしは幸せだった……。それを……それを、あんたは全て奪った」   突然全てを奪い去ってしまったこの魔王の右腕である男を、朱音は許すことができなかった。   もうこの世界にやってきてどの位日が経ったろうか。 元の世界を、元の家族や友達を想わなかった日など一日とてない。 「まだ記憶がお戻りではないようです ね」   アザエルは事も無げに感情の篭らない声でそう言った。   この男に、自分の悲しみや怒りをぶつけたところで、無駄なことは朱音自身よくわかっていた。 けれども、この溢れ出した思いを最早止めることはできなかった。
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