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将彦は自分の歌に対する他人の評価を気にしてもいた。彼は自分の歌を武男や靖史、暁子以外には聞かせたことがなかった。彼らは将彦に対して優しくて寛大であるし、彼にとっては家族のようなものなので気兼ねなく歌えた。
だから、偶然とはいえ千鶴の前で歌ったことが、本当の意味で他人に歌を聞かせた初めての経験だった。
更に、居酒屋では十人ぐらいの人に自分の歌を聞いてもらった。お店にいたお客さんは誰も酔っぱらっていた上に、自分もお酒を飲み、酔っていたのでなんとか歌えた。しかし、その後で彼はひどい恥ずかしさを覚えた。夜中に書いたラブレターを昼間読むような感覚に彼は襲われた。
そして、今回のデモテープ録りに至っている。今回は東が積極的に協力をしてくれていた。自分の歌に自信のない将彦は、まだ彼に乗せられているような気持ちで落ち着かなかった。彼の内心には、からかわれているんじゃないかという疑念が浮かんでいた。彼の中の自己不信は根強かった。
将彦はコーヒーが来るまで備え付けのウォーターサーバーから何杯も水を飲んだ。そのうちドアがノックされた。
「はい」
東が出てくると思い、将彦の緊張はピークに達し声が上ずった。
しかし現れたのは先程の受付の女性だった。手にはコーヒーカップを乗せたお盆を持っていた。
「コーヒーをお持ちしました。まだ少し時間がかかるようなので、申し訳ありませんが、もう少々お待ち下さい」
女性はコーヒーカップをテーブルに置いて部屋を出て行った。応接室は途端にコーヒーの香りで満たされた。その匂いを嗅ぎ、将彦はリラックスした。
祖父のカフェに通うようになってから、将彦はコーヒー好きになった。
それまで将彦は、コーヒーを苦いだけだと感じていたので、せいぜい飲んでカフェオレに砂糖をたくさん入れ甘くしたものしか飲まなかった。しかし武男の店で彼はコーヒーの芳ばしい香りの良さを知り、だんだんその苦味にも慣れて、祖父の淹れるコーヒーをおいしく感じるようになった。それからは缶コーヒーのブラックも飲めるようになり、祖父の店では自分でコーヒーを淹れさせてもらうようにもなった。
コーヒーの香りでリラックスした将彦は、少し緊張感も薄れて、ゆったりとソファーに腰をかけた。そのとき、再度ドアがノックされた。
「待たせて、済まなかったね」
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