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東は、将彦の様子がまた変わったことに気づいた。先ほどは少し気落ちしているように思ったが、今はそのかけらも見えない。自分のかけた声が影響を与えたのか、もしくはスタジオの空気がそうさせたのか。彼はもう一つの可能性を、頭に思い描いたが、激しい嫌悪感と共にすぐさまそれを消し去った。その手の嫌悪感を彼は反射的に、無意識に見ないようにしていた。
「それは頼もしいね。それじゃあ、一発で決めてみようか!」
「分かりました」
将彦は自分でも分からないまま、どこからか供給されるエネルギーに乗り、波にでも揺られているように感じていた。今までのふわふわした自信のないふらつきとは違うものだった。窓の向こうでは東がスタッフに何やら指示を与えていた。
「よし、準備OK!いつでも始めていいよ」
その言葉を聞いて将彦は、体の中にあるエネルギーを乗せてギターを弾き歌をうたい始めた。
「やっぱり、すごい」
東の横で千鶴が呟いた。
東は千鶴を見ようと思ったが、止めた。確かに将彦の歌は体の芯まで響いてくる。そして今回は、居酒屋で彼が歌っていたときに聞いた嘆きとも叫びともつかないような声ではなくて、喜びの響きが入っていた。これなら、デモテープで落ちることはないだろう。東はそう確信した。その一方で何かの警告音が鳴っているのを微かに感じていた。
「OK!ほんとうに一発で上げたね。どうだい?もう一回歌ってみる?」
「いいえ、もうエネルギーを使い果たしてしまいました。ありがとうございました」
歌い終わった将彦は、確かにエネルギーを消耗し歌う前とは別人のようだった。しかし、彼は心なしかすっきりとした顔つきをしていた。
「分かったよ。お疲れさま。さっきの応接室で少し待っていてくれるかな?すぐにCDに入れて持っていくよ」
「分かりました。お願いします」
そう言うと、将彦は座っていた椅子からゆっくりと立ち上がり、スタジオを出た。歌った後のこの消耗感と達成感は何だろう?今までになかった感覚に彼は戸惑いを覚えた。
将彦がスタジオを出ると、廊下に千鶴がいた。
「やっぱりすごく良かったです。この前よりも声が明るかった。何か工夫したんですか?」
東のいない、千鶴と二人だけの空間に、将彦はあの夜へ戻った気がして嬉しかった。
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