第零章

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黒く、男にしてはわずかに長い、頬までの髪が揺れる。 学生服に身を包んだ男は、ただ目の前に広がった夜景を冷めた目で見下ろした。 男の足元に広がる、煌びやかな光景。うつくしいともとれるその夜景は、人工的に作られているとは言え、星星のようにまばゆい。 男は、ふっ、と息を吐き出し、後ろを見据えた。 いつの間に存在したのか、または、最初から存在していたのか、影から生まれたかのような、真っ黒なシルエットが男を見つめている。 長く、真っ直ぐな黒い髪。 その髪が風があるというのに全く動いていない。 まるで、そこだけ時間が止まってしまっているかのようだ。 「イエソド―マルクト」 彼女の黒いくちびるから、鈴のような声が聞こえてくる。 男は顔を顰め、「その名前は好きじゃねぇな」と女を睨んだ。彼女は凄んだその視線にまったく怯むことなく、再びその鈴のような声で囁く。 「時の夜の大いなるもの」 「その名前も、好きじゃねぇな」 「では?」 指先ひとつ動かない彼女の声が、先をうながす。 男には名前がない。名前など、意味がないからだ。 「そうか、名前が必要だったか。そうだな。まあ、何でもいいが、亜由多とでもしておけ」 「了解。イエソド―マルクト、および時の夜の大いなるものを亜由多と認識する」 かち、と音がする。 まるで、照明のスイッチを消したかのような音の後、彼女の姿が跡形もなく消え去った。 「人使いが荒くて、嫌になるね」 男――亜由多は、その身をひるがえしてビルの屋上から消えた。 イエソド―マルクト、時の夜の大いなるものという名のユニヴァース。 男は、テュケー製邀撃用戦闘機『アレーテイアー』。 この世界を守るためだけに造られた擬似人格、AIである。
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