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 あれから榎並くんは私を避けるようになった。避ける、という言い方はちょっと違うのだけれど、距離感が違う、というか。私とはあまり話さなくなった。口数の少ないタイプだから周りから見たらまったく変わりはなかったと思う。21時で引継ぎをするときも、私と目を合わせない。きっと私を軽蔑している。それでも鍵を渡すときは相変わらず顔を少し染めていて、それを見て私は安堵した。あきらめて欲しい、異性として見ないでほしいと頭の中では願っていながらも、心の奥底では彼を欲しがっていた。欲しがったところで手に入る訳でもないのに。僅かに手の触れるこの瞬間が一日の中で一番幸せな瞬間だった。この引き継ぎが終わると、私は一気に落胆した。  相変わらず、榎並くんは忙しそうだった。昼間は大学に行き、夕方になると専門学校へ行き、夜になるとうちにバイトに来ていた。ほぼ毎日そんな生活をしているようだった。週末も夕方から閉店まで仕事をして、倒れてしまわないか心配だった。自分の夢を叶えるために、コツコツと真面目に取り組む姿は、年上の私でも頭が下がる思いだった。それでも夢の宝飾デザイナーで食べていける訳でもなく、卒業後は都内のどこかの会社に就職し、それとは別にデザインの勉強を続けていく、と他の学生に話していたのを人づてに聞いた。  都内に残る……。それは私の進む道とは全く方向が違うことを指していた。彼との将来は重ならない。  私も店長が行う業務はすべて取り仕切っていて、店長からも太鼓判をいただいた。来月4月1日付けで告示される昇級人事には、私の名前が載ることになっていた。それは、全国のどこか店長の空きが出来次第、異動することを意味していた。それが各店舗に配布されれば、榎並くんもそれを知ることになる。  榎並くんとは会えなくなる。あと1ヶ月、せいぜいこの店にいられたとしても2ヶ月。もう残された時間は僅かだった。 .
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