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夜…夕食の席…
物静かな食卓で、武田は母親に勇気を振り絞りながら言葉を発した。
このタイミングで「良いはず」と武田は思ったし、願った。
今、この「席」には、武田と母親…離れてドア付近に使用人が立っているだけだ。厳格な父親は家を留守にしている。打ち明けるならこのシチュエーションしかなかった。武田は眼鏡のフレームを一度上にあげた。癖と言われればその通りだが、今この瞬間はそれが、喋り出す合図となった。
「母上…少し宜しいですか?」
武田はナイフとフォークをテーブルクロスに丁寧におき、ナプキンで口元を拭った。
同じ素振りを母親も同様にしてから…
「どうしましたか?知也」
「誠に申し上げにくいのですが、本日、僕の自転車が何者かに盗まれてしまいました。申し訳ありません」
母親は武田の言葉に眉を逆「く」の字に曲げ、怪訝の色を濃くした。
「鍵は…かけたのですか?」
「はい。しっかりかけました。僕自身に至る部分はなかったように存じあげます」
母親は暫し思考を働かせている様子だ。武田はその一瞬、一秒に胸が張り裂けそうになる。唾を何度も呑み込んで緊張ながらに母親の言葉を待つ。
「わかりました。沢田ちょっと…」
沢田と呼ばれる使用人が一礼と丁寧な返事をして、ドア付近からテーブルにやってきた。
「知也に新しい自転車を内密に手配してちょうだい。彼には決して悟られぬよう注意してちょうだい」
「はっ!かしこまりました。」
母親が彼と言った相手は武田の父親を指す。
武田の緊張はこの時やっとなだらかになった。
武田は使用人沢田と目が合う。
お互いが一礼をした。
その時武田は使用人の目が笑っているのに気づいた。
武田これで、やっと…心底ほっとする事ができた。
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