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夕方、礼拝を済ませ、皆が礼拝堂から去った後のことでした。主をかたどった像の埃をそっと拭っていた私は、羽箒を持ったまま振り返りました。扉の開く音がした為です。
「……」
扉を開いたのは、浮浪者のように見えました。聖都ではまず見かける事の無い種類の方です。万事主の御心のままに生活する聖都で身元が解らない方は、外部の方でしかありません。
「どうされましたか?道にお迷いですか」
私は浮浪者の方に声をかけました。聖教を信じれば聖都は聖羽根の鎖を与えます。改宗にいらっしゃった方を無下にすることは聖職者として出来ません。
「……迷うておると言えば、迷うておる」
浮浪者の方は、失礼ですが身なりからは想像もできないようなしっかりしたお返事をなさいました。私はそれを比喩だと思い、一歩近づきました。
「私で何かお力になれるでしょうか?ここは主の家、聖神マクア様のお膝元です。教徒の方でなくとも、出来る範囲であれば私達は力になりますよ」
私の声に、浮浪者の方は少しお顔をあげました。ぼろぼろの布が頭に巻かれており、顔が見えなかったのですが、初めてお顔が見えました。その目は私を射抜いたようでした。
「今まで長い事生きてきた」
かなりお年を召した方のようでしたが、そうは思えない厳めしい口調で話し始めました。私はそれを立ち止まったまま聞くことしかできません。
「ただ一つの望みの為に生きてきた」
浮浪者の方は、曲げていた腰を伸ばされました。
「貴方の言う【主】の教えに照らし合わせれば、幾百度地獄で殺されてもまだ贖罪は済まぬほどの罪を犯してきた」
布か服かわからない外套を脱ぎ捨てた下には、恐ろしく上質な仕立ての服が隠されていました。
「しかし」
頭のぼろぼろの布も取り去って、その下には白髪の入り混じった銀髪が現われました。
「儂をここまで生かした想いの根幹が、遂げねばならぬ願いが、おのれ、汚らわしき強欲共めが!」
翠が燃えるようでした。呑み込まれそうな視線から思わず私は目を背けました。
「願いまでもが蹂躙されていようとは!」
銀の髪と翠の瞳を持った老人は、私を見据えました。何を言えばこの老人を救えるのか解らず、私はただ立ちすくむことしか出来ません。
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