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「左様、人ではあろうさ。人ではな」
老人は小さく首を振りました。どこか満足そうに一つ頷きました。
「そなた、名は」
老人が不意に私を見上げました。
「名はありません。主に仕える身ですから」
私はそれだけをやっといいました。言い知れぬ何かを感じさせるこの老人から逃げ出したい気持ちでいっぱいでした。老人はそれを聞くと笑い始めました。
「くふふ、ふはははは!隠しおおせた!ならば良い!」
老人はしばらく笑い続けました。心底おかしくて堪らないと言った様子でした。
「儂が何を言っているか皆目解るまい。解らぬままで良い。これを受け取ってくれればそれで良い」
老人が差し出したのは、小さな箱でした。黒い木で作られた簡素な箱の様です。私は怯えるように前に出て、その箱を受け取ることしかできませんでした。
「己を識りたくなったらそれを開くといい」
老人は一言だけ残してぼろ布をきちんと拾い上げ、元通り浮浪者に見えるように丁寧に身支度をして礼拝堂から出ていきました。残されたのは私と箱だけです。
箱は、開けないままでした。開いてしまえば何かが壊れてしまうような気がしたのです。私はそれを服の隠しに押し込みました。視界から消えた箱はそれでもその存在を主張していましたけれど。
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