序章

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馬上で、一人の侍が泣いていた。 男はただひたすらに馬を下関へ走らせていた。 男の名は三吉慎蔵。 長州藩士であった。 彼はそのまま馬を走らせ続け、夜も深い亥の刻(午後10時)頃に下関に付き、豪商・伊藤助太夫の家の門を叩いた。 直ぐに暗い声が帰ってきた。 「どなた様でしょうか…」 「三吉だ。」 すると足音が遠ざかっていくと共に門がすぐに開き、 「失礼いたしました。どうぞお入りください。」と使用人が沈痛な面持ちをして道を開けた。 広い邸内。心身ともに疲れきった慎蔵の横を、先ほどの使用人が先導していく。玄関では助太夫自ら慎蔵を待っていた。 「よくぞおいでになさいました…お龍さんなら自然堂にいらっしゃる。」と、言葉少なに慎蔵をねぎらい、下を向いて下がった。 自然堂は邸内のすぐ近くにあった。 だが慎蔵にとっては果てしなく遠い道のように思えた。 先ほどの使用人が先導していく。 慎蔵はただ付いていく。 そして自然堂に着いた。 何を話すべきであろうか。 そんなことを考えながら草履を脱いだ。 「姐さん!」 その声に驚いて部屋を覗き見ると、何と長府に訃報を届けた海援隊の佐柳高次が畳に突っ伏していた。 (何と!早馬に迫る勢いで下関に来てしもうたか…では龍さんはこの事実を今知らされたのか…) 龍はその一言で大方を察したようであった。 そして目から流れた一筋の涙が白い肌を濡らした。 「龍さん…」 慎蔵はもう部屋の中にいた。 龍は目を見開き、 「三吉さん…」と驚いた。 佐柳も驚いていた。 「先の十五日、龍馬殿が近江屋で殺された。中岡殿も一緒だったようで、重傷だ。(翌日に中岡は死亡した)」 「そうですか…」 そう言ってお龍は何も言わなかった。 佐柳はまだ号泣していた。 しばらく佐柳のすすり泣きが部屋に響いた。 「その夜」 お龍は不意に口を開いた。 「血刀を提げて、申し訳なさそうに枕元に立つ龍馬さんを見たんです。何かを言おうとしていたけど…聞き取れなかった…」 お龍は言葉に詰まり、泣き出した。 慎蔵も静かに泣いた。そして言った。 「龍さん。私は『龍馬殿に万一の時は龍さんを頼む』と頼まれていたのです。私は約束を守らねばならない…龍さん、私は貴女を迎えに来ました。長府に参りましょう。」と。 星の良く見える、とにかく冷える晩であった。
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