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「僕も君のことが大好きだけど、ここまでできなかった。何か買ってあげるわけでも、連れていくでもなく、帰ってきたら威張り散らして、怒鳴って。君を女らしく美しくあり続けられるようにと頑張ったことは何一つとしてなかったよ。君は今まで僕が男らしくいられるようにいつ、どこでも立ててくれたにもかかわらずだ」
夫の顔が少し苦しそうに歪む。悔しいなあと小さな声でそう漏れた。
幹子は夫の顔を優しく撫でて愛おしそうに見つめた。
「何をおっしゃるんですか?夫は立てるように昔から母から教えられていましたから。それに習っただけのことですよ」
「それに感謝もせずに今まで当たり前だとして過ごしてきた自分が腹立たしいんだ」
彼はそう言って、彼の頬に触れる幹子の手を優しく包んだ。
「ここ数日、難しい顔してると思えば、そんなことを考えていたんですか?」
幹子はそう言って、ふたたびお粥を彼の口に運んだ。彼はそれを数回咀嚼し、飲み干すとこう続けた。
「僕は何も気づかなかった。君の手がこんなにもひび割れているのにも、化粧もせず、美しくあろうとすることも我慢して、僕のために尽くしてくれているのに」
こんなになるまで…と少し涙を溜めた目で幹子を見た。
「どうしたんですか?今日はよくしゃべるんですね」
幹子は不思議に思いながらも、夫に優しい目線を向けた。しかし、その目の優しさも次の言葉で一変する。
「もう視界がほとんどぼやけて感覚が無くなってるんだ…。今夜が限界もしれない」
その言葉を言い終わらないうちに、幹子の目からはらはらと涙が零れていた。幹子の心にここ数週間、重くのしかかっていたのは夫の死であった。医者に余命を宣告され、最期は自宅という夫の意思に従い、自宅療養していたが、夫は着実に衰弱していった。
夫がいなくなる。
確実に近づきつつある死に、幹子の心は締め付けられていたのである。
そして、今目の前にその死が横たわっていたのだ。
「怖いだろうな。こんなときまで僕はわがままにも君を置いていくらしい。非情だね、僕は」
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