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彼はそっと微笑みながら続けた。
「最期に一つだけ、わがままに振り回されてくれないかな…」
幹子はまだ夫の言っている意味が飲み込めないのか、呆然と夫の顔を見つめた。
「化粧…化粧してきてくれるかな…。今までいろいろ我慢させてきた。君はおそらく、女としての自分すら捨てて、僕に尽くしてくれたろう?僕も久しく着飾った君を見ていなくて。最期にもう一度…美しい君を見て逝きたい」
いいねと彼は静かにそして、優しさに満ちた目で幹子を見た。幹子はすっと立ち上がり、二階の化粧台のあるかつての2人の寝室へ向かった。
埃の被った化粧台の鏡を見ると、懐かしい思い出が雪崩のように、止まってしまった2人の時間を埋めるように幹子の脳内に流れ込んできた。
2人で登った名前もよく覚えていない山、2人の将来を話しながら歩いた海岸、動物園、公園。
どれもありふれたものばかりだったが大切な思い出である。最後に思い出したのは彼が赤い顔をしながらしたプロポーズのシーンであった。
彼女は涙を堪えながら支度を終えた。久々にした化粧はお世辞にもうまいとは言い切れなかった。しかも、今の流行りなどもわからないのでだいぶ不安である。
しかし、意を決して夫の元へ向うことにした。こんなドキドキを味わうのも長い間なかった気がする。
「お待たせしました…」
恐る恐る襖を開けると目をつむった夫がそこにいた。急いで駆け寄り、体を揺する。
「だい…しょうぶ。生きてるよ」
彼は薄目を開けて、幹子を見るとおお…と唸ったような声を上げた。
「やっぱり、君は綺麗だね。いくつになっても綺麗だ。こんなにも綺麗なのに僕は何をやっていたのかな」
夫がどんな心境で言葉を紡いでいるのかはもう、表情からはわからない。この数十分の間にだいぶ衰弱してしまったようだった。
「あなた、愛してますよ。もっといろんな言葉で伝えたかったけど…遅かったみたい…」
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