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The beginning
その日、火ノ宮紅香は、普段下校に使っている電車よりもかなり遅くなってから、自宅の最寄り駅のホームへと降りた。
時刻は午後九時半だが、この地域のターミナルとなっているこの駅では、終点ということもあって人通りはまだ多い。
とはいえ、帰宅ラッシュの時間もかなり過ぎており、周囲はスーツ姿のサラリーマンが中心で、紅香のような制服の学生は少なかった。
部活の皆と話しこんだせいで、すっかり遅くなってしまった。
まあ、それも今日で最後だが。大好きだったバスケ部も、今日で退部届けが受理されたのだから。
ふう、と小さく息をつき、紅香はホームを上るエスカレーターへと乗った。
とにかく、早く家に帰らなければならない。
エスカレーターを上りきり、紅香は早足でバス停へと向かう。
途中、やはり部活帰りらしい、男女とすれ違った。次の大会とか、練習などといった楽しげな声が耳をかすめた。
ほんのまでは、自分たちもあんなふうにこの駅を歩いていたのに。
ふと、寂しさが心をかすめた。
――――夏の大会、あいつと出たかったな。
ついすれ違った男子に流れそうになった視線を、あわてて引き戻し、断ち切るように頭を振る。
未練など引きずっている場合ではない。これからは忙しくなるのだ。
駅からバス停への階段を駆け下りながら、紅香はぐっと奥歯を噛みしめた。
後ろをあえて振り向かないようにしながら、すでに到着していたバスへと駆け込む。同時に、乗降口のドアが閉まった。ちょうど出発する時刻だったようだ。
ついいつもの習慣で席を探して視線を泳がせる。が、探すまでもなく、乗客は紅香だけのようだった。
視界の端に、横目でこちらを一瞥する運転手の姿が見えた。
それに押されるようにして、あわてて紅香は手近な席についた。
「……発車いたします」
濁った声で運転手が告げ、すぐにバスが走り出す。
普段ならば部活の仲間たちとにぎやかに帰っていた紅香は、所在無く、窓から外を見つめる。
この辺りでは最大の地方都市である、この前崎市の駅前は、この時間はまだにぎやかだ。それでもバスの中に他の乗客の姿がないのは、自家用車が交通の中心であるこの街の特色のせいだろう。
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