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尼子氏再興のため山中鹿之介は、新宮党尼子誠久の子で京の都に逃れ、東福寺で僧侶として生活していた遺児を還俗させ、尼子孫四郎勝久と名乗らせ、尼子氏再興の旗頭とした。
勝久を擁立した鹿之介は、尼子氏旧臣と接触して数度、毛利氏に挑み、尼子氏再興に東奔西走するのであるが、その度々で毛利氏を悩ませるも、その都度、撃破されてしまう…。
そして時は流れて天正6年(1578)3月…。
鹿之介は、天下政権を握ろうとしていた織田信長の力を借り、その重臣の羽柴秀吉の協力で備前・美作・播磨の国境に位置する、上月城を奪い、若き当主勝久と共に上月城に入り、尼子氏再興を再び始動した…。
尼子勝久の上月城に入城を知った、この時の毛利家当主の毛利輝元は毛利氏の支柱である、毛利両川で世に知られる吉川元春、小早川隆景に命じて、10万の大軍で尼子討伐に向かわせた。
天正6年(1578)4月の事である…。
その少し前…。
播磨三木城の別所長治が信長に背き、毛利方に走っていて、秀吉は三木城攻めを行っていた…。
その間隙を縫う形で毛利軍3万が上月城を包囲、秀吉は三木城攻めを一時中断、上月城に籠る尼子勢を救おうとしていた。
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