中国女―メゾフォルテ  春野一樹

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  「ソノ子、水着、着てくるんだぞ、ひょっとしたら、海水浴するかもしれないから。」萩尾がからかった。ソノ子は、   「ふふふふ。」と笑って、「そうするわ、楽しみね。」と言った。三人でベートーヴェンの交響曲第五番を聴きながら、加藤さんと小林さんとクマの、三角関係の話をした。   「いやねぇ、あの二人出来てるのよ、加藤さんに悪いわよねぇ。」   「あのクマがよぉ。」   三時になったのでソノ子が、私、仕事だからと言って出て行った。僕らは二人でシェーンベルグの「浄夜」を聴いた。コーヒーがなくなり、おかわりをした時、山口君夫婦が二人して店に入ってきた。山口君は「ナポリ」に用事があり、シモンちゃんは加藤さんに用事がある。僕と同じく、彼らもまた時間を余していた。四人でワーグナーの「タンホイザー」を聴き「亜」の話を一時間ばかりした。   「中島夏がよお、今度、紀伊国屋ホールで公演するんだってよ、知ってたか。」   「あのかわいらしい女か。」   「俺、チケット貰ったんだよね。『亜』から貰った。」   「何でもあの二人は有名だもんなあ、週刊誌にも出てたしよ。美術手帖にも出てた、ユリイカにも出てた。」   「うふふ。」   「亜」の奴のニヤッとした顔を思い出し僕は、   「奴は女房の前でも、他の女と寝るらしいぜ。」と言った。山口君は、   「あれは根が好きもんで、スケベなんだ。」と笑った。   「ホモ・ルーデンスだとよ、笑わせるね。」   僕は日曜の江ノ島を誘ったが、彼らは、僕らは用事があるんだ、と断った。萩尾が、俺、もう帰る、と言って帰り、僕ら三人も時間になったので店を出て、仕事に向かった。      大井果物屋の前から、山口君は桜ヶ丘の「ナポリ」の方へ歩いていき、僕ら、僕とシモンちゃんは、小林さんと加藤さんが話しているところへ行った。僕は、 「加藤さんいいですか? 今日、ファイブスターありますか? 」と尋ねた。あった。加藤さんは五千二百円と書いた切符をくれ、シモンちゃんは万葉会館の仕事にありついた。ファイブスターは五時から十一時迄で、万葉会館は五時半から十一時迄だった。僕は大和田の入り口、ハチ公公園の正面のビル下の歩道に立ち、シモンちゃんは宇田川町の方へ人ごみのなか消えていった。
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