中国女―メゾフォルテ  春野一樹

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  僕ら三人は渋谷の「らんぶる」で三百円のコーヒーを飲みながら、仕事の時間まで時を過ごす。そうしていると、三ヶ月のような顔をしたウェートレスの彼氏、竹本が三島由紀夫の「春の雪」を持って、ニコニコして現われ、僕達の席に入った。そして「驟雨」を「らいう」だ、と言って本を読み始めた。寡黙な男であった。彼はウェートレスの彼氏であって、僕たちも仲間だからコーヒーを二六十円にまけてもらう。バッハの「コーヒー・カンタータ」と「パッサカリヤ」と「禿山の一夜」、「展覧会の絵」をリクエストして、僕は竹本に質問してみた。   「竹本君。君、三島由紀夫のどこがいいんだい。ただ気取っているだけじゃないのか。知識があることを。」   「いや、僕はこの右翼的な耽美感が好きなんだよ。世にスレてないしね、純粋なのさ。」僕は、   「ふううむ、彼が四十歳にしてボディビルして、体をマッチョにし、ふんどしひとつになり『憂国』などの映画を作って、2・26事件の将校に痛く共感して、『盾の会』など結成したのがいいのかねぇ。」と感心した。   僕は三島由紀夫の作られた美意識、というものが好きになれなかった。小難しく古臭い。川端康成などはまだロマンチシズムがあり、自然主義であり、ありのままに表現しているので、まだかわいい所があり、認められもしたが。   小川君とか萩尾とか遠藤とか先崎とかが、つぎつぎ現れ、まるで溜まり場のようになった。地下一階の六席あるテーブルは、水の入ったコップと、灰皿とコーヒー・カップでいっぱいになった。灰皿はピースの吸殻であふれ、他の大人しい客に煙たがられた。ろくでなしどもめ。シモンちゃんがつるつるした、湯上りの顔で入ってきた。この喫茶店は地下一階、地上三階の古い建物で、レコードのコレクションも豊富で人気があった。リクエストで曲をかけ、それは途切れることはなく、順番でなかなかお目当ての曲に、たどりつくには時間を要した。モーツァルトのケッヘル265番を聴いて、先崎は大井果物屋に、小川君はチラシ配りに、遠藤と僕とシモンちゃんと、十大君は看板持ちに、山口君は「ナポリ」に仕事をするため、二六十円のコーヒー代を払って、四時半には「らんぶる」を出た。
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