中国女―メゾフォルテ  春野一樹

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  彼は連れの男と隣の席に座りニャッとした。そして体に似合わないバリトンでコルトレーンの「オム」をかけろ、と大きな声でウェイトレスに脅しをかけた。暫らく彼は連れの男と話をしていたが、やがて僕の方を向き、中島夏のチケットを出し、やるよ、といった。僕はそれをありがたく頂戴し、そろそろ四時半だなと時計を見、道玄坂を下りおりた。   大井果物屋前の舗道で看板を持ち、何人かの若者と交渉していた加藤さんに僕は、今日はファイブスターはないですかと声をかけた。五千二百円稼がなくては今夜のおまんまが食えない。   「今日はファイブスターはもうない。その代わりひなぎくがある」と加藤さんはいって紙切れを出した。ひなぎくは夕食付きで五千円なので、僕はもうけたとうれしくなって、東急から宇田川町の方へ入っていった。チッ、今日も一日が始まったと舌打ちした。陽気も好くなり、看板を持つ手も手袋なしですませられた。酔っ払いが焼肉定食なんぼだとからんでくる。アベックが通り過ぎる。ここは裏通りなので人影もまばらだ。通行人を見ていると腹がへってきた。きれいでスタイルのいい若い女が通る。今日の夕食は何が出るかな、と考え楽しみにした。あと三時間だが10分が長い。もう放っぽり出して逃げようかと思うが、そうもいかなく看板を2、3回くるりと回転させる。そして今日読んだカミュの「異邦人」の、あのムルソーと太陽と浜と泉とアラビア人のを思い浮かべ、そうだな俺だってあの場合、ああしたかもしれないなと、同感した。不条理は日常茶飯事だ。何も真新しいことではない。
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