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海は、水面を輝かせ、ゆったりと波を寄せ返す。
頼りなく揺れていたビーチボールは、いつしか女の視界から消えていた。
遺体のない男の葬儀に姉の姿はなかった。
焼香を済ませ帰ろうとする女に、男の両親はただ黙って頭を下げた。どこからともなく「別れた女房の妹の……」という親類たちの囁き声が、女の耳に聞こえてきた。
喪服姿の帰り道、吸い寄せられるようにして辿り着いた海を目の前に、女はひとり、男を想っていた。
暴風雨に巻き込まれ、消息を絶った男の船は、後に発見されたものの、そこに男の姿はなかった。
深い海の底に沈んだであろう男の体は、今ではもう、海の一部となり、陽の光を浴びながら、ゆるやかな波に姿を変えて、女の目の前に戻ってきているような気がしてならなかった。
秋の日差しは、大分傾いてきている。女は裸足になると、ゆっくりと海に向けて歩き出した。
心地のよい、波の冷たさが足の裏をくすぐり、やがて、女の喪服の裾を濡らした。透明な海水の輝きをその手にすくい、遠く、沖の方から、唸るように聞こえてくる波の声に、ただじっと耳を傾けた。
そして、体を包み込む潮の香りに、女は男に抱かれたような錯覚に陥り、そっと目を閉じた。日に焼けた、少年のような笑い顔と、甘く擦れた声を想った。
…お義兄さん、と、女は呼んだ。
震える声が、唇から溢れると、今まで堪えていた涙がせきを切ったように流れ出て、女の頬を伝った。
あの蒸し暑い霧雨の夜、何故そう呼んで引き止めなかったのかと、女は悔やんだ。出会ってから、一度も、女は男を呼ぶことが出来なかった……。
涙が、ひとつ、またひとつと、海面に落ちて流れていく。
そして女は、涙で霞む遥か沖を見つめ、男の名前を呼んだ。
いつも心の中でしか呟いたことのない、決して声に出して呼んではならない、男の名を呼んだ。
海は、女の細い声を呑み込むようにざわめく。
何処からか、海猫の鳴く声が聞こえ、女はひとり、空を見上げた。
―完―
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