呼ぶ女

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女が、実家に帰らぬ日々が続く。 もう一年近くも帰省していない事に気付いたある夏の夜。不意に、女のアパートに男が訪ねてきた。 シャワーを浴び、濡れた髪を乾かしていた時だった。時計の針が、二十二時を廻ってからのチャイムの音に、女は警戒心を強くしながら、玄関のドアスコープを覗いた。 あっ、と思わず女の口から声が洩れる。懐かしい姿をそこに確認して、女はすぐに玄関のドアを開けた。 久しぶりに会う男は、心なしか痩せたように思えた。白いTシャツに色褪せたジーンズ姿。少し照れたように微笑んだ男は、魚、元気か?と少年の顔で女に聞いた。女は男の突然の訪問に驚きながらも、微笑んで小さく頷いた。             女は男を部屋に招き入れた。男の体から、潮の香りが漂い、それは女の心をくすぐった。 この部屋で、この香りを嗅ぐことに不思議な気持ちになりながら、女はお茶の準備をする。 窓辺に置かれた小瓶の中の青い魚を見つけ、男は嬉しそうに笑った。そして、ぽつりと呟いた。 「離婚することになった」             お茶をいれる女の手が止まる。聞き間違えをしたのかと思い、女は男を見た。驚いた女の様子を察した男は、魚から視線をそらさないままで、続けて、何も聞かされてないのか?と、女に訊ねた。女は、男の横顔をじっと見つめ、いいえ、何も…。と答えた。 姉と最後に会ったのは、いつのことだったろう。もう随分と電話の声も聞いていなかった。実家から、男の居ない婚家に帰る時の、疲れた姉の顔を、女は思い出していた。 「随分寂しい思いをさせてしまった。けど、それももう終わる」 しんと静かな部屋の空間に、あの擦れた声が響いた。 「……可愛い義妹にも、別れを言いにきた。こんな遅くに、悪かったな」 男は一度手に持った魚の瓶を再び窓辺に戻すと、静かにそう言い、ゆっくりと女に向き直った。 女は何も言えず、真っすぐ自分を見つめる男の瞳を見た。深い、海のような瞳だと女は思った。そこには怒りも悲しみもなく、ただ優しさだけが映し出されていた。
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