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秋も深まり、朝夕の寒さが身に染みるようになると、女は日が沈むのと同時に床につくようになった。
いつものように早々と床についたある夜。女はふと誰かに呼ばれたような気がして目を覚ました。
女の寝ている仏間の空気が、ひんやりと冷えている。白い霧のようなものが立ちこめ、女はそっと、自分の寝ている布団の足元に視線を移した。
そこには、懐かしい夫と息子の姿があった。ああ…、と思わず声が出て、女は寝床から身を起こした。
夫は、グレーの背広姿だった。生前、東京に嫁にいってしまった娘がプレゼントしてくれた、夫が一番気に入っていた背広だった。
夫の隣で微笑んでいる息子は、嫁と一緒になる前の、若い青年の頃の姿であった。優しげなまなざしを女に向け、「かあさん」と呼んだ
女の目から涙がこぼれ落ちた。怖いなどとは思わなかった。ただ嬉しくてしかたなかった。
懐かしい夫の手が、女の前に差し出された。あの頃と変わらない、働き者の大きな手だった。その手が、自分を何処に導こうとしているのか、女にはもうわかっていた。白くぼんやりと立ちこめる霧の中に浮かび出されたその手に触れる瞬間、ふとひとり残される嫁が気にかかったが、その気持ちを察したように、大丈夫だ、と夫がいった。
女は夫の手を握った。冷たくも、温かくもない手だった。女の背中を、息子がいたわるように優しく撫でる。
霧は、渦を巻くようにして、三人を包みこんでいく。その白い渦が、時折、桜の花吹雪のように見えた。
全てを飲み込むようにして消え去る瞬間、あの庭先の桜の木を思い浮かべながら、もう待たなくていいのだ、と女は思った。
―完―
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