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悟(さとる)はじっと姿勢を崩さず正座で待ち続けた。
隣には部下の篠原佳奈美(しのはらかなみ)も悟と同じようにきっちりと正座して待っている。
佳奈美は長い髪をきっちりと頭の後ろで結わえて、知的に見える眼鏡と気の強そうな瞳が、いかにも『仕事のできる女です』という空気を放っている。
そして実際に彼女は仕事のできる女であるが、命令を出すより命令をこなす方を得手いる彼女は、まだ二十代半ばで彼女より五つ六つ年下の悟の部下をしていた。
そして、やっと目の前に座る男が、渡した書類全てに目を通し終えて顔をあげた。
四十代半ばのしわが目立ち始めた男は、その書類を読み終えても、出会い初めのニコニコとした人の良さそうな笑顔を崩さない。
読んでいる最中も一度もその笑顔は崩れなかった。
この男が今回の交渉相手、鈴森拓郎(すずもりたくろう)である。
「それで、鈴森さん、いかがでしょうか?悪いお話ではないと思いますが」
悟は温厚さを醸し出す営業スマイルで拓郎の返事を促した。
かなりの高い確率で拓郎は首を縦に振ると、悟は見当づけている。
初めに話を切り出したときから拓郎は一切嫌な顔をしなかった。
その上、佳奈美が書類を渡してから軽く一時間、悟たちが待っているのも構わずにじっくりと読みこんでいる。
その気がなければ、そんなことはしない。
書類に書いた条件を引き上げてくる可能性はあるが、こちらももちろん初めから限界値を示しているわけではない。
条件を盛る準備はできているし、如何に盛らずに話を進めるかが交渉術の腕の見せどころだ。
「そうですね」
「では、」
「はい。もちろん・・」
拓郎が告げる。
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