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『詫びは今度きちっとするからよ』
沼から這い出るように、火の玉から徐々に人体が現れる。こんなにも近くなのに、姿はよく見えない。ただ、髪が長いことだけは印象に残っている。
『ちっと貸してくれ』
その後の事はよく覚えていない。いつの間にか自宅へ帰っていた。どうやって帰ったかは分からない。
ただどしゃ降りの雨にも関わらず、ミコの体は少しも濡れてはいなかった。
でも体は冷えていたのでシャワーは浴びた。食欲が無いので夕食は食べなかった。
そのあと、鈍い足取りでベッドに潜って早めに就寝した。
当然というかなんというか、その日は一晩中寝れなかった。
当たり前だ。
あんなことが起きて平静に過ごせる方がどうかしてる。
あの時の記憶が脳裏を過る。
手に掴まれた。
声も聞こえた。
何者かと目があった。
鳥肌が立ち、身の毛がよだつ。
本当に久々だ。
こんな気持ちを味わうのは。
最後に幽霊というものに怯えたのは、もういつの話だったか。
母親に夜中のトイレについていってもらっていたのは、いつの話だったか。
この体質のせいで思い出すことさえできない。
出来ないと思っていた。
「はは…」
怖い。
幽霊が怖い。
そうだ。
程度こそあれ、誰だって幽霊は怖い。
決してその逆ではない。
そんな当たり前の気持ちを、ミコはようやく取り戻した。
やはり幽霊というものは好きになれそうにない。
何故なら怖いから。
その真っ当な気持ちが、何故かとても心地よく思えた。
◇
その翌日、早めにバイト先へ赴くと、件の新人が普通に出勤していた。話を聞いてみると、どうやら何事もなかったらしい。
途中土砂に巻き込まれたとか言っていたが、とにかく何事もなかったらしい。
頑丈な人だと思いつつ、御礼をして傘を返却した。
「そういや笹峰さんの方は大丈夫だったの?」
「ううん、大丈夫」
この時、本人は知る由もない。
「なんにもなかったよ」
既に裏側の世界へと足を踏み入れていたことに。引き戻せぬ程に踏み込んでいたことに。
この出逢いが吉と出るか凶と出るかは、まだ誰にも分からない。
彼女と彼が裏側で関わるのは、
まだ先の話。
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