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(…帰ろう)
独身時代の貯金で、美味しいもの食べて、ウインドーショッピングして、夜になって、圭介から請われたら、勿体つけて帰ってもいい。そんな風に思っていたのだが。
足よりも先に、自然に心が彼のもとに、そしてあの家に寄っていった。
茅夏の目に、待ち焦がれていたはずの駅前行きのバスが入った。
けれど、彼女はそのバスを止めることなく、再び元来た道を歩き始める。その時。
クラクションの音が響いた。
「茅夏」
傍迷惑に、突如一車線の道路の片側に車を寄せて、警報音だけでは物足りなさげに、窓から彼女の名を呼んだのは、夫だった。
後部車両のドライバーのイラッとした顔が、茅夏には見えたが、圭介は構わず茅夏のカバンを奪い取り、「早く乗れ」と強引に彼女の身体を助手席に押し込んだ。
「帰るぞ」
有無を言わせぬ調子で圭介は言って、再び車を走らせる。
「私帰るなんて言ってない」
いつもなら口をついて出てしまいそうな、茅夏の強がりも、そして謝罪も、言わせない圭介の強引さ。
胸に去来した嬉しさと愛しさを噛み締めるように、茅夏はフロントガラスの風景を見やる。
カーステからは、新譜のCDでなく、ふたりが付き合ってた頃によく聴いた、歌が流れていた。
彼女の様子を窺うように、ちらと横目を向けた圭介に、茅夏は言った。
「ただいま」
(完)
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