9人が本棚に入れています
本棚に追加
大名の干渉を受けない伊賀の里は、それぞれの忍者集団を束ねる土豪(どごう)達によって運営されていた。※土豪(規模は小さいが土地の権力者の事)
その数、六十三にものぼる。
各々が各勢力から依頼を受ける為、敵として殺し合ったり、味方同士で協力する事もある。
その為、各土豪毎に独立しており関係は決して良好とは言えなかった。
しかし、ひとたび伊賀の地に災難が降りかかると、全ての土豪が集まり合議制を用いて里の方針を決め一丸となって立ち向かうのである。
六十三家が集まり合議をする場所は、伊賀の地にある寺『無量寿福寺』。
そこに集まる事は、里の危機を意味している。
そして、西暦1579年・九月、魔王率いる織田家によって、残る一つの忍びの里・伊賀の地に危機が訪れる。
織田信長の次男、信雄(のぶかつ)率いる一万余りの 軍勢が押し寄せて来た。
しかし、伊賀の者達はその動きを事前に察知して、三方から攻める信雄軍を待ち伏せし、これを撃退した。
この事柄を後に『第一次天正伊賀の乱』と呼ぶ。
しかし、それで危機が去ったわけではない。
二年後の西暦1581年の夏も終わる頃、またも信雄が伊賀の地に攻め寄せる動きを見せたのである。
最初のコメントを投稿しよう!